世界遺産「マチュピチュ」の初代村長は日本人の「野内与吉」氏!
こんばんは~ 篠原です。
ご存知ですか?
そしてマチュピチュの初代村長が日本人だったと
いうことをご存知でしょうか?
標高2430mにある、
麓にあるマチュピチュ村を創ったのは、人生を
村に捧げた日本人の「野内与吉」氏でした。
今では年間200万人もの人が訪れている、
謎に包まれた「空中都市」マチュピチュ遺跡は、
一生に一度は訪れてみたいと思う人も多いと思います。
初代村長となった「野内与吉」氏の生涯
1895年生まれ
1917年 契約移民としてペルーに渡り、農園で
働きましたが、1年で辞めて、アメリカ・ブラジル・
ボリビアなどを周り
1923年 再びペルーの土地に戻り、ペルー国鉄
に勤務して、電車の運行や線路拡大工事に
携わりました。
1929年 クスコ~マチュピチュ間の線路を
完成させました。その後マチュピチュで暮らす
ようになりました。
現地女性と結婚し、家庭を築いた与吉氏は、
日本人の勤勉さと正直さで、村のために尽くし
ました。
1935年 村で初めての本格的な木造建築
ホテル「ホテル・ノウチ」が建てられました。
完成したホテルを村のため無償で提供して
1階は郵便局、交番として2階は裁判所や
村長室として利用されました。
1939年~1941年にはマチュピチュ村の
最高責任者である行政官を務めました。
1941年 マチュピチュ村は正式な村となって
「初代村長」となりました。
訪れた際、野内氏の長女が花束を贈呈して、その
新聞記事を福島の家族が目にして、始めて野内氏
の消息を知りました。
しました。その時両親は他界していましたが、
兄弟や親戚たちが、日本に戻るよう説得しましたが、
帰りを待つ11人の子供たちのため、戻りました。
その2か月後
1969年8月29日に74歳で生涯を終えました。
が友好都市協定を結びました。マチュピチュ村が、
友好都市協定を結んだのは大玉村が世界で初めての
ことだそうです。
27日の未明に行われました。
が出席して、「友好都市」の協定書を交わしました。
友好の架け橋となった、「野内与吉」氏がいたから
こそと、改めて偉大さを感じます。
それにしても、日本からマチュピチュに行くには
片道4日間かかるそうです。
遠いですね~!!
読んで頂きありがとうございます。
失礼いたします。 篠原香代